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シャドウ・ワーク: 生活のあり方を問う (岩波現代文庫 社会 138) 文庫 – 2006/9/15
- 本の長さ339ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2006/9/15
- ISBN-104006031386
- ISBN-13978-4006031381
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2006/9/15)
- 発売日 : 2006/9/15
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 339ページ
- ISBN-10 : 4006031386
- ISBN-13 : 978-4006031381
- Amazon 売れ筋ランキング: - 728,500位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2023年11月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
〇 イリイチが本書で言っているのはこんなことである。①開発によって世界は画一化され、地方のやり方で昔ながらの慎ましやかな生き方を送る自由が失われてしまった、②産業化・商品経済化によって賃金労働の地位が高められ、それ以外の形態の労働は日陰の存在とされてしまった、③そのひとつはむかしながらのコミュニティで自給自足的に暮らすための労働であり、④もうひとつは専業主婦が担ってきた家事労働を典型とするもので、賃金労働者を補助するシャドウ・ワークである。
〇 反近代文明・反産業主義の旗印を鮮明にする本であるから、人によって賛否はわかれるだろう。残念ながらわたしは賛同できなかった。というのも、一方で便利な文明を享受しながら他方でそれを批判する甘えを感じてしまうからである。それならば解決案のひとつも提示してごらん、と言いたくなる。
〇 しかしながら本書を捨て去ることもできない。近代文明はしばしば暴走するから、近代文明を肯定するとしても常に謙虚に反省し問題があれば正し続けていかなければならない。本書がそうした反省の契機を与えてくれていることは間違いない。このようなわけで本書の内容についてひとまず4星。
〇 ところで翻訳には不満が残る。ひとつひとつの言葉は明瞭に訳されているのに、センテンスになるとぎこちなく、文章が流れない。皮肉や冗談を交えたイリイチの原文も素直でないのかもしれないが、そんなものまで生真面目につまらなく直訳している翻訳の責任が大きいのではないだろうか。原文と対照して確認したわけではないけれど、どうもそんな気がする。そこで星ひとつを減じて3星(労作に対して勝手なことを言って申し訳ないと思いつつ)。
〇 反近代文明・反産業主義の旗印を鮮明にする本であるから、人によって賛否はわかれるだろう。残念ながらわたしは賛同できなかった。というのも、一方で便利な文明を享受しながら他方でそれを批判する甘えを感じてしまうからである。それならば解決案のひとつも提示してごらん、と言いたくなる。
〇 しかしながら本書を捨て去ることもできない。近代文明はしばしば暴走するから、近代文明を肯定するとしても常に謙虚に反省し問題があれば正し続けていかなければならない。本書がそうした反省の契機を与えてくれていることは間違いない。このようなわけで本書の内容についてひとまず4星。
〇 ところで翻訳には不満が残る。ひとつひとつの言葉は明瞭に訳されているのに、センテンスになるとぎこちなく、文章が流れない。皮肉や冗談を交えたイリイチの原文も素直でないのかもしれないが、そんなものまで生真面目につまらなく直訳している翻訳の責任が大きいのではないだろうか。原文と対照して確認したわけではないけれど、どうもそんな気がする。そこで星ひとつを減じて3星(労作に対して勝手なことを言って申し訳ないと思いつつ)。
2023年11月25日に日本でレビュー済み
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奥様方必見(笑)。
2016年3月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
イリイチが2016年の日本を見たら何と言うのだろう?
昨今の保育士不足問題はひとつの例だが、それだけではなく、全体的に。。。
この時代だからこそ、改めて、本書を読み返す意味があると感じます。
.
昨今の保育士不足問題はひとつの例だが、それだけではなく、全体的に。。。
この時代だからこそ、改めて、本書を読み返す意味があると感じます。
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2022年10月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
6章構成のうち、どの章もおもしろいが、結びつきは低く、単体でも読めるが、段階を経て読んでも仕方ない気がする。
シャドウ・ワークが19世紀に階級敵に仕込まれたものなのか、
人間がコミュニティを持ったところから原始的に必要とされてきたものなのかは、見分けがつかない。
むしろ、〈影〉であるからこそ、輪郭は掴みにくいが、それは賃労働によって浮き上がるものではないと思う。
ある労働価値観ではシャドウ・ワークも一種の労働的な営みになるのかもしれないが、
自立・自存における人間的な生活を享受するためには、言わば延長された表現型のように、人間の一部だ。
それが社会的要請や仕組まれたものではなく、内から湧き出る営みである。
そして、日本人は賃労働さえも、まともに輪郭を見出せていない。
法の支配を知らず、リーガルマインドを持たないものにとって、
賃労働やシャドウワークの輪郭は永遠に捉えることはできない。
労働に対する価値観を持っていない(あるいは労働に妄信しているだけの)状態は、
社畜を生み出し続けている。
シャドウ・ワークが19世紀に階級敵に仕込まれたものなのか、
人間がコミュニティを持ったところから原始的に必要とされてきたものなのかは、見分けがつかない。
むしろ、〈影〉であるからこそ、輪郭は掴みにくいが、それは賃労働によって浮き上がるものではないと思う。
ある労働価値観ではシャドウ・ワークも一種の労働的な営みになるのかもしれないが、
自立・自存における人間的な生活を享受するためには、言わば延長された表現型のように、人間の一部だ。
それが社会的要請や仕組まれたものではなく、内から湧き出る営みである。
そして、日本人は賃労働さえも、まともに輪郭を見出せていない。
法の支配を知らず、リーガルマインドを持たないものにとって、
賃労働やシャドウワークの輪郭は永遠に捉えることはできない。
労働に対する価値観を持っていない(あるいは労働に妄信しているだけの)状態は、
社畜を生み出し続けている。
2013年7月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
イリイチを初めて読みました。 ブレの無い視点と客観性を失わない論拠の積み上げから見えてくる世界観。
読み進んでいくと、以前から疑問に思っている断片がきれいにはまっていく感じで、とても刺激的でした。
読み進んでいくと、以前から疑問に思っている断片がきれいにはまっていく感じで、とても刺激的でした。
2013年5月30日に日本でレビュー済み
夫に先立たれ、残された家に一人で住むある未亡人は、庭で野菜や果物を育て、近所で手に入れた米で餅や味噌をつくり、遠くの親戚まで送ってやっている。着なくなった着物をリフォームして作務衣につくりかえたところ近所でも評判で、ならばと知り合いにプレゼントしたりしている。一方、妻に先立たれた都会のある独居老人は、三食をコンビニ弁当ですませ、服はすべてユニクロ、近くのカルチャーセンターと病院通いを日課にしている。前者がシャドウ・ワークにわれわれがしばりつけられる以前の生活のありかた。後者がそれ以後、つまり今、主流の生活形態。
イリイチがその存在を暴きだし、激しく批判する〈シャドウ・ワーク〉とは、「賃労働を補完する」労働のことであり、低賃金の労働でも、失業のことでもない。イリイチはこれを「産業社会が財とサーヴィスの生産を必然的に補足するものとして要求する労働」とも呼んでいる。つまり、「よりいっそう経済成長をすすめるために」強制される「支払われることのない自己開発」が〈シャドウ・ワーク〉なのである。
資本主義経済の浸透により、「賃金を稼ぐ者とそれに依存する者より構成される十九世紀の市民的家庭が、生活の自立・自存を中心とする生産=消費の場としての家にとってかわった」。その結果、経済活動は「生産=供給」「消費=需要」に無理やり二分され、際限なく前者を拡大していく前提として、やはり際限なく後者も拡大されねばならなくなった。前者を担うのが主に男性の賃金労働者で、後者を担うのが主に女性のシャドウ・ワーカーである。試験勉強、通勤、家族サービス、医療サービスといったものもすべてシャドウ・ワークの範疇に入る。賃金労働者を支援し、再生産するための家庭では、家、車庫、台所などに、稼いだ賃金が投入される。賃労働を前提とした、消費依存の生活は、人間生活から自立・自存の基盤を奪い、賃労働なくしては生活が成り立たないという状況を恒久化させていく。今日では、賃金こそが「くらしの本来の源泉」とみなされるようになっているが、近代以前のヨーロッパにおいて、「賃労働に全面的に依存している世帯主」は「貧困者」とみなされ、救済の対象とされた。賃労働に依存することは、「働く者が世帯内に貢献できるような家庭をもっていない、とみなされ」たからである。
21世紀の日本において、〈シャドウ・ワーク〉は私たちの社会に完全に浸透している。若者たちは賃労働者になることを前提とした教育を受け、賃労働者として優れた自身の資質を「就活」の舞台でアピールし、結婚すれば家を買い、子どもを保育園に預けて夫婦で働き、宅配の食材を買って、ネットのレシピで食事をつくる。田舎はさにあらずと言う人もいるかもしれないが、個人商店が次々と姿を消し、巨大ショッピングモールに衣食住+楽を依存している田舎暮らしのあり方もまた、賃労働を前提とした〈シャドウ・ワーク〉がそこまで浸透していることの証である。
〈シャドウ・ワーク〉により無理やりに需要を生み出すという社会において、かつては家族あるいはコミュニティのなかで限りなく無償に近いかたちで施された教育や教育は有償の専門サービスとして再定義された。現在、このほかのありとあらゆる領域に、数限りない専門サービスが生まれている。料理、洗濯、掃除、子育て。お金さえあればすべてをアウトソースすることは可能である。ではそのお金はどこからくるのか。多くの場合は賃労働である。
より快適に、より楽に、より安全に……を追求することが、自らを終わりなき賃労働に追い込むという矛盾。いまや都会だけでなく田舎においても、いや、人口が減り、高齢化がすすむ田舎においてはなおさら画一化された専門サービスに頼らざるを得ない状況に陥っている。業者のサービスがなければ葬式ひとつ満足に出せないありさまだ。言語的にも経済的にも閉じられ、自己充足してきたコミュニティが悪い意味で「開かれ」た結果、自力で社会を維持していく能力を失い、人工呼吸器をつけながらやっとのことで生きながらえている。
イリイチが1980年代に見ていた〈シャドウ・ワーク〉化される社会は、約30年後のいま、より純粋なかたちで私たちの目の前に存在している。「便利」とか「快適」とか「繁栄」とか「成長」の土台に終わりなき賃労働があるとしたら、私たちがそうしたものに与えている価値自体を考え直さなくてはならないように思う。この30年で新たに生まれた最もたちの悪い〈シャドウ・ワーク〉はインターネットによってもたらされる膨大な情報の処理と「もう一つの」人間関係への対処、そして肥大したエゴのマネジメントであろう。
イリイチがその存在を暴きだし、激しく批判する〈シャドウ・ワーク〉とは、「賃労働を補完する」労働のことであり、低賃金の労働でも、失業のことでもない。イリイチはこれを「産業社会が財とサーヴィスの生産を必然的に補足するものとして要求する労働」とも呼んでいる。つまり、「よりいっそう経済成長をすすめるために」強制される「支払われることのない自己開発」が〈シャドウ・ワーク〉なのである。
資本主義経済の浸透により、「賃金を稼ぐ者とそれに依存する者より構成される十九世紀の市民的家庭が、生活の自立・自存を中心とする生産=消費の場としての家にとってかわった」。その結果、経済活動は「生産=供給」「消費=需要」に無理やり二分され、際限なく前者を拡大していく前提として、やはり際限なく後者も拡大されねばならなくなった。前者を担うのが主に男性の賃金労働者で、後者を担うのが主に女性のシャドウ・ワーカーである。試験勉強、通勤、家族サービス、医療サービスといったものもすべてシャドウ・ワークの範疇に入る。賃金労働者を支援し、再生産するための家庭では、家、車庫、台所などに、稼いだ賃金が投入される。賃労働を前提とした、消費依存の生活は、人間生活から自立・自存の基盤を奪い、賃労働なくしては生活が成り立たないという状況を恒久化させていく。今日では、賃金こそが「くらしの本来の源泉」とみなされるようになっているが、近代以前のヨーロッパにおいて、「賃労働に全面的に依存している世帯主」は「貧困者」とみなされ、救済の対象とされた。賃労働に依存することは、「働く者が世帯内に貢献できるような家庭をもっていない、とみなされ」たからである。
21世紀の日本において、〈シャドウ・ワーク〉は私たちの社会に完全に浸透している。若者たちは賃労働者になることを前提とした教育を受け、賃労働者として優れた自身の資質を「就活」の舞台でアピールし、結婚すれば家を買い、子どもを保育園に預けて夫婦で働き、宅配の食材を買って、ネットのレシピで食事をつくる。田舎はさにあらずと言う人もいるかもしれないが、個人商店が次々と姿を消し、巨大ショッピングモールに衣食住+楽を依存している田舎暮らしのあり方もまた、賃労働を前提とした〈シャドウ・ワーク〉がそこまで浸透していることの証である。
〈シャドウ・ワーク〉により無理やりに需要を生み出すという社会において、かつては家族あるいはコミュニティのなかで限りなく無償に近いかたちで施された教育や教育は有償の専門サービスとして再定義された。現在、このほかのありとあらゆる領域に、数限りない専門サービスが生まれている。料理、洗濯、掃除、子育て。お金さえあればすべてをアウトソースすることは可能である。ではそのお金はどこからくるのか。多くの場合は賃労働である。
より快適に、より楽に、より安全に……を追求することが、自らを終わりなき賃労働に追い込むという矛盾。いまや都会だけでなく田舎においても、いや、人口が減り、高齢化がすすむ田舎においてはなおさら画一化された専門サービスに頼らざるを得ない状況に陥っている。業者のサービスがなければ葬式ひとつ満足に出せないありさまだ。言語的にも経済的にも閉じられ、自己充足してきたコミュニティが悪い意味で「開かれ」た結果、自力で社会を維持していく能力を失い、人工呼吸器をつけながらやっとのことで生きながらえている。
イリイチが1980年代に見ていた〈シャドウ・ワーク〉化される社会は、約30年後のいま、より純粋なかたちで私たちの目の前に存在している。「便利」とか「快適」とか「繁栄」とか「成長」の土台に終わりなき賃労働があるとしたら、私たちがそうしたものに与えている価値自体を考え直さなくてはならないように思う。この30年で新たに生まれた最もたちの悪い〈シャドウ・ワーク〉はインターネットによってもたらされる膨大な情報の処理と「もう一つの」人間関係への対処、そして肥大したエゴのマネジメントであろう。
2018年12月6日に日本でレビュー済み
シャドーワーク自体の定義や問題意識について、大変共感できるし、自分の中の塞ぎ込んだ気持ちをきちんと説明してくれているのが、イリイチの考察。
でももう今は、仕事のための自己研鑽や資格取得という意味にすり替わっているし、仕事の効率論や合理論の話に飲み込まれてしまったと思う。とても残念だし、提唱者本人の望む形で、言葉が活きていない。
皮肉にも、シャドーワークという言葉が生み出されたことで、それが圧力になる形で機能してしまっている今。
でももう今は、仕事のための自己研鑽や資格取得という意味にすり替わっているし、仕事の効率論や合理論の話に飲み込まれてしまったと思う。とても残念だし、提唱者本人の望む形で、言葉が活きていない。
皮肉にも、シャドーワークという言葉が生み出されたことで、それが圧力になる形で機能してしまっている今。