個々のトピックについての分析/見方が興味深くとても楽しめました。著者に感謝です。一方で、考察の枠組みや結果には気になる点が多々あったので以下ポイントを絞ってコメントしてみます。
■交換様式による分析の限界(弾かれてしまうもの)?
著者は社会構成体の歴史を次の交換様式で分析しています。
A:互酬(贈与と返礼)
B:服従と保護(略取と再配分)
C:商品交換(貨幣と商品)
D:Aの高次元での回復
僕としては、社会は地球環境の中で人が構成する、ということを考えると、人と人/自然の関係として、次の3つを考えるやり方もあると思います。
L:対等
M:服従と保護
N:否定(虐待/虐殺と略奪)
交換様式との対応で言えば、LがAとDに,MがBに,Nに対応する交換様式は無し。Cの商品交換は、LとMの具体的あり方の一つ。
ところで、現代社会の喫緊の課題は大きく2つ。一つは、有限な地球環境の中で、どうやって自然と共生するか、そして貧困を無くすか(温暖化や環境汚染、そして格差の問題)、もう一つは、ジェノサイド/侵略戦争から身近なところで起こっているような、人を死に追いやる差別虐待をどうやって抑止するか、だと思いますが、前者は、LとM、つまり交換様式でカバーできるにしても、後者の差別虐待つまりNは、一方通行の関係なので交換様式では陽に扱えず、著者の考察の周辺に追いやられてしまっているように感じ残念な気がしました。ちなみに、差別虐待の抑止の手段は、法制度と教育ですね。
■国家=資本=ネーション(国民)の力?
確かに20世紀までは、国のため、金のため、民族のため、というように、人々が、国家=資本=ネーション(国民)を実体化/権威化して”力”を感じていたという面はあったのだろうと思います。ただ、最近は、あくまでそれらは人々が仮構したものであるというメタレベルの認識に立つ言説が溢れていることもあり、例えば、貨幣=物神というような感覚は、個人には無いし(金はそれ自体が目的なのでは無く、やりたい事やリスク回避するための手段と考える)、会社も事業目的があっての利益の追求であって、やみくもな利益至上(重金)主義は少なくなっているのでは。。
■Dは人が願望/企図することで実現できず、向こうから来る?
僕なりに現代におけるDは何か具体的に言うと;
有限な地球環境で生活する上では、生物多様性を維持し自然(人を含む)と対等に共生するのが人間として当たり前、という感じ方/価値観を大多数の人々が持つこと
だと思います。
このDは、資本主義社会という言葉が利益至上主義を意味するとすれば、実現できません。一方、資本主義社会が、主に、投資する人と企業と消費者で構成される社会という意味であれば、Dは目指すことができます。企業の事業目的、投資の目的、消費の目的がDの価値観に沿っていればいいので。
では、Dは、願望/企図することで実現できないものかという点。人間の感じ方/価値観は意図して正確に醸成できるものでは無いですが、それを目指して試行錯誤しながら進むことはできると思います。ここでも、法制度と教育が重要だと思います。
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力と交換様式 単行本 – 2022/10/5
柄谷 行人
(著)
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生産様式から交換様式への移行を告げた『世界史の構造』から一〇年余、交換様式から生まれる「力」を軸に、柄谷行人の全思想体系の集大成を示す。戦争と恐慌の危機を絶えず生み出す資本主義の構造と力が明らかに。呪力(A)、権力(B)、資本の力(C)が結合した資本=ネーション=国家を揚棄する「力」(D)を見据える。
【目次】
序論
1 上部構造の観念的な「力」
2 「力」に敗れたマルクス主義
3 交換様式から来る「力」
4 資本制経済の中の「精神」の活動
5 交換の「力」とフェティッシュ(物神)
6 交換の起源
7 フェティシズムと偶像崇拝
8 エンゲルスの『ドイツ農民戦争』と社会主義の科学
9 交換と「交通」
第一部 交換から来る「力」
予備的考察 力とは何か
1 見知らぬ者同士の交換
2 自然の遠隔的な「力」
3 「見えざる手」と進化論
4 貨幣の「力」
5 定住化と交換の問題
6 共同体の拡大と交換様式
第一章 交換様式Aと力
1 贈与の力
2 モースの視点
3 原始的な遊動民と定住化
4 トーテミズムと交換
5 後期フロイト
6 共同体の超自我
7 反復強迫的な「力」
第二章 交換様式Bと力
1 ホッブズの契約
2 商品たちの「社会契約」
3 首長制社会
4 原始社会の段階と交換様式
5 首長が王となる時
6 カリスマ的支配
7 歴史の「自然実験」
8 臣民と官僚制
9 国家をもたらす「力」
第三章 交換様式Cと力
1 貨幣と国家
2 遠隔地交易
3 帝国の「力」
4 帝国の法
5 世界帝国と超越的な神
6 交換様式と神観念
7 世界宗教と普遍宗教
第四章 交換様式Dと力
1 原遊動性への回帰
2 普遍宗教的な運動と預言者
3 ゾロアスター
4 モーセ
5 イスラエルの預言者
6 イエス
7 ソクラテス
8 中国の諸子百家
9 ブッダ
第二部 世界史の構造と「力」
第一章 ギリシア・ローマ(古典古代)
1 ギリシア芸術の模範性と回帰する「力」
2 亜周辺のギリシアの“未開性”
3 ギリシアの「氏族社会の民主主義」
4 キリスト教の国教化と『神の国』
5 悲惨な歴史過程の末の到来
第二章 封建制(ゲルマン)
1 アジア的なあるいは古典古代的な共同体との違い
2 ゲルマン社会の特性
3 ゲルマン社会における都市
4 修道院
5 宗教改革
第三章 絶対王政と宗教改革
1 王と都市(ブルジョア)との結託
2 「王の奇蹟」
3 臣民としての共同性
4 近代資本主義(産業資本主義)
5 常備軍と産業労働者の規律
6 国家の監視
7 新都市
第三部 資本主義の科学
第一章 経済学批判
1 貨幣や資本という「幽霊」
2 一八四八年革命と皇帝の下での「社会主義」
3 「物神の現象学」としての『資本論』
4 交換に由来する「力」
5 マルクスとホッブズ
6 株式会社
7 イギリスのヘゲモニー
第二章 資本=ネーション=国家
1 容易に死滅しない国家
2 カントの「平和連合」
3 自然の「隠微な計画」
4 帝国主義戦争とネーション
5 交換様式から見た資本主義
6 資本の自己増殖を可能にする絶え間ない「差異化」
7 新古典派の「科学」
第三章 資本主義の終わり
1 革命運動とマルクス主義
2 十月革命の帰結
3 二〇世紀の世界資本主義
4 新自由主義という名の「新帝国主義」
5 ポスト資本主義、ポスト社会主義論
6 晩年のマルクスとエンゲルスの仕事
7 環境危機と「交通」における「力」
第四部 社会主義の科学
第一章 社会主義の科学1
1 資本主義の科学
2 『ユートピア』とプロレタリアの問題
3 羊と貨幣
4 共同所有
5 「科学的社会主義」の終わり
6 ザスーリチへの返事
7 「一国」革命
8 氏族社会における諸個人の自由
9 私的所有と個人的所有
第二章 社会主義の科学2
1 エンゲルス再考
2 一八四八年革命挫折後の『ドイツ農民戦争』
3 一五二五年の「階級闘争」
4 原始キリスト教に関する研究
5 共産主義を交換様式から見る
第三章 社会主義の科学3
1 物神化と物象化
2 カウツキーとブロッホ
3 ブロッホの「希望」とキルケゴールの「反復」
4 ベンヤミンの「神的暴力」
5 無意識と未意識
6 アルカイックな社会の“高次元での回復”
7 交換様式Dという問題
8 交換様式Aに依拠する対抗運動の限界
9 危機におけるDの到来
注
あとがき
【目次】
序論
1 上部構造の観念的な「力」
2 「力」に敗れたマルクス主義
3 交換様式から来る「力」
4 資本制経済の中の「精神」の活動
5 交換の「力」とフェティッシュ(物神)
6 交換の起源
7 フェティシズムと偶像崇拝
8 エンゲルスの『ドイツ農民戦争』と社会主義の科学
9 交換と「交通」
第一部 交換から来る「力」
予備的考察 力とは何か
1 見知らぬ者同士の交換
2 自然の遠隔的な「力」
3 「見えざる手」と進化論
4 貨幣の「力」
5 定住化と交換の問題
6 共同体の拡大と交換様式
第一章 交換様式Aと力
1 贈与の力
2 モースの視点
3 原始的な遊動民と定住化
4 トーテミズムと交換
5 後期フロイト
6 共同体の超自我
7 反復強迫的な「力」
第二章 交換様式Bと力
1 ホッブズの契約
2 商品たちの「社会契約」
3 首長制社会
4 原始社会の段階と交換様式
5 首長が王となる時
6 カリスマ的支配
7 歴史の「自然実験」
8 臣民と官僚制
9 国家をもたらす「力」
第三章 交換様式Cと力
1 貨幣と国家
2 遠隔地交易
3 帝国の「力」
4 帝国の法
5 世界帝国と超越的な神
6 交換様式と神観念
7 世界宗教と普遍宗教
第四章 交換様式Dと力
1 原遊動性への回帰
2 普遍宗教的な運動と預言者
3 ゾロアスター
4 モーセ
5 イスラエルの預言者
6 イエス
7 ソクラテス
8 中国の諸子百家
9 ブッダ
第二部 世界史の構造と「力」
第一章 ギリシア・ローマ(古典古代)
1 ギリシア芸術の模範性と回帰する「力」
2 亜周辺のギリシアの“未開性”
3 ギリシアの「氏族社会の民主主義」
4 キリスト教の国教化と『神の国』
5 悲惨な歴史過程の末の到来
第二章 封建制(ゲルマン)
1 アジア的なあるいは古典古代的な共同体との違い
2 ゲルマン社会の特性
3 ゲルマン社会における都市
4 修道院
5 宗教改革
第三章 絶対王政と宗教改革
1 王と都市(ブルジョア)との結託
2 「王の奇蹟」
3 臣民としての共同性
4 近代資本主義(産業資本主義)
5 常備軍と産業労働者の規律
6 国家の監視
7 新都市
第三部 資本主義の科学
第一章 経済学批判
1 貨幣や資本という「幽霊」
2 一八四八年革命と皇帝の下での「社会主義」
3 「物神の現象学」としての『資本論』
4 交換に由来する「力」
5 マルクスとホッブズ
6 株式会社
7 イギリスのヘゲモニー
第二章 資本=ネーション=国家
1 容易に死滅しない国家
2 カントの「平和連合」
3 自然の「隠微な計画」
4 帝国主義戦争とネーション
5 交換様式から見た資本主義
6 資本の自己増殖を可能にする絶え間ない「差異化」
7 新古典派の「科学」
第三章 資本主義の終わり
1 革命運動とマルクス主義
2 十月革命の帰結
3 二〇世紀の世界資本主義
4 新自由主義という名の「新帝国主義」
5 ポスト資本主義、ポスト社会主義論
6 晩年のマルクスとエンゲルスの仕事
7 環境危機と「交通」における「力」
第四部 社会主義の科学
第一章 社会主義の科学1
1 資本主義の科学
2 『ユートピア』とプロレタリアの問題
3 羊と貨幣
4 共同所有
5 「科学的社会主義」の終わり
6 ザスーリチへの返事
7 「一国」革命
8 氏族社会における諸個人の自由
9 私的所有と個人的所有
第二章 社会主義の科学2
1 エンゲルス再考
2 一八四八年革命挫折後の『ドイツ農民戦争』
3 一五二五年の「階級闘争」
4 原始キリスト教に関する研究
5 共産主義を交換様式から見る
第三章 社会主義の科学3
1 物神化と物象化
2 カウツキーとブロッホ
3 ブロッホの「希望」とキルケゴールの「反復」
4 ベンヤミンの「神的暴力」
5 無意識と未意識
6 アルカイックな社会の“高次元での回復”
7 交換様式Dという問題
8 交換様式Aに依拠する対抗運動の限界
9 危機におけるDの到来
注
あとがき
- 本の長さ432ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2022/10/5
- 寸法3.4 x 12.7 x 18.8 cm
- ISBN-104000615599
- ISBN-13978-4000615594
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商品の説明
著者について
1941年生。思想家。 著書に『定本日本近代文学の起源』『トランスクリティーク―カントとマルクス』『世界史の構造』『哲学の起源』(以上、岩波現代文庫)、『世界共和国へ』『憲法の無意識』『世界史の実験』(以上、岩波新書)、『定本 柄谷行人集』(全5巻)、『定本 柄谷行人文学論集』(以上、岩波書店)、『ニュー・アソシエーショニスト宣言』(作品社)ほか多数。
登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2022/10/5)
- 発売日 : 2022/10/5
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 432ページ
- ISBN-10 : 4000615599
- ISBN-13 : 978-4000615594
- 寸法 : 3.4 x 12.7 x 18.8 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 13,515位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 258位社会一般関連書籍
- - 274位哲学 (本)
- - 428位その他の思想・社会の本
- カスタマーレビュー:
著者について
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1941年生まれ。評論家 (「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 世界史の構造 (ISBN-13: 978-4000236935 )』が刊行された当時に掲載されていたものです。)
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2024年2月19日に日本でレビュー済み
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2023年12月7日に日本でレビュー済み
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「世界史の構造」を敷衍した本。そのせいか、「世界史の構造」を読んだ時の衝撃に較べれば、インパクトが小さかった。
著者は交換様式の分析から世界史の展開を俯瞰するが、交換様式Dが、なぜ、どこから、どのようにしてやってくるのかは、この本にも書いてない。「どうすればよいのか」というノウハウが書いてなければ、役に立たない、と考える人は、哲学、思想、学問と無縁の人だ。「どうすればよいのか」は読者が考えることであり、それが政治だ。
ニュートンやアインシュタインは、役立つためのノウハウを考えようとしたのではない。ある現象を見て、「なぜなのか」を考えたのだ。「なぜなのか」を探求することで学問が始まる。長い目で見れば、それが社会の発展に役立つ。社会科学でも同じである。
資本論には「役に立つノウハウ」は書いていないが、自由主義者でも資本論を読むのは、資本主義経済の分析に不可欠の本だからだ。
「力と交換様式」は、資本論を手掛かりに交換過程を分析し、資本論をさらに発展させた。資本論は、「読みたいが、まだ読んでいない人」の多い本の典型だが、「力と交換様式」は資本論よりも読みやすい。資本論を読んでいなくても、「力と交換様式」を読むことが可能だ。
多くの人が、ネット情報からものごとが表面的にわかったような気になるが、この本は、一見、「当たり前に見える」ことを深く考えることの重要性を教えてくれる。考えることが、すなわち哲学であり、資本論もアインシュタインの理論も哲学的な思考から生まれた。
著者は交換様式の分析から世界史の展開を俯瞰するが、交換様式Dが、なぜ、どこから、どのようにしてやってくるのかは、この本にも書いてない。「どうすればよいのか」というノウハウが書いてなければ、役に立たない、と考える人は、哲学、思想、学問と無縁の人だ。「どうすればよいのか」は読者が考えることであり、それが政治だ。
ニュートンやアインシュタインは、役立つためのノウハウを考えようとしたのではない。ある現象を見て、「なぜなのか」を考えたのだ。「なぜなのか」を探求することで学問が始まる。長い目で見れば、それが社会の発展に役立つ。社会科学でも同じである。
資本論には「役に立つノウハウ」は書いていないが、自由主義者でも資本論を読むのは、資本主義経済の分析に不可欠の本だからだ。
「力と交換様式」は、資本論を手掛かりに交換過程を分析し、資本論をさらに発展させた。資本論は、「読みたいが、まだ読んでいない人」の多い本の典型だが、「力と交換様式」は資本論よりも読みやすい。資本論を読んでいなくても、「力と交換様式」を読むことが可能だ。
多くの人が、ネット情報からものごとが表面的にわかったような気になるが、この本は、一見、「当たり前に見える」ことを深く考えることの重要性を教えてくれる。考えることが、すなわち哲学であり、資本論もアインシュタインの理論も哲学的な思考から生まれた。
2022年10月29日に日本でレビュー済み
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本書は、肝腎のところ(霊的または神的な〈力〉の作動領域)が一種の謎として投げかけられている。
ただし、力は何かのやり取り:交換=相互作用そのものである(力は何かのやり取りから生まれる)という根本前提は現代物理学と全く同じだ。
①最も根底的な問いとして、交換様式Aの高次元における回帰または反復としての交換様式Dの成立条件の時間はどのように考えられるのかという問題がある。古代の人間たちも全く同じ問題を自覚していたはずだ。
②反復強迫という概念で捉えられた限りでは交換様式Dの力は超越論的な言語の力ではないか。
著者による『力と交換様式』における極めて枢要な公式⇒カントの統整的理念としての「自然」が交換様式D に対応する
ここで次の問いが生じる。
③交換から生じる力が「観念的な力」であるなら、交換様式Dから生じる観念的な力はカント以後最も普遍的な探究をなし得たショーペンハウエル哲学において見るなら意志の力なのかそれとも表象(言語)の力なのか。
④交換様式Dから生じる観念的な力はマルクスにおける「霊的な力」であり「信用」である。ならば信用創造への言及が無いのは何故なのか?
マルクスの『資本論』において信用創造の議論があるのか。そこは根本問題の一つである。本書に限らず信用創造を考えない資本主義の探究には致命的な欠陥がある。カルヴァン主義についても同様である。言うまでもないが、この点(恐らく信用創造とカルヴァン主義の問題に無理解)に関しては嘗てのドゥルーズ=ガタリの『資本主義と精神分裂病』やマスメディア的に流行している『人新世の資本論』(「思想」的には柄谷のコピー以上のものはない)系列の言説も同様である。その理由はドゥルーズ=ガタリも『人新世の資本論』も(特にロンドンを中枢とする)グローバリズムによって描かれた絵の中のキャラに過ぎないからということだが。
『力と交換様式』をまとめるなら、柄谷行人氏は「それが何かわからなくても(だからこそ)命がけの飛躍をせよ!」と呼びかけている。それ(交換様式Dの力)はカント的な定言命法である。カントとの関連はそれでいいだろう。
柄谷行人氏は非常に長い時間と熱量を以ってマルクスを何とか哲学的にもまともなものとして救い出そうとしていた様に見える。だがそれは無理だったというのが柄谷氏自身の集大成的な仕事の最終的な結論だと思われる。
ただし、力は何かのやり取り:交換=相互作用そのものである(力は何かのやり取りから生まれる)という根本前提は現代物理学と全く同じだ。
①最も根底的な問いとして、交換様式Aの高次元における回帰または反復としての交換様式Dの成立条件の時間はどのように考えられるのかという問題がある。古代の人間たちも全く同じ問題を自覚していたはずだ。
②反復強迫という概念で捉えられた限りでは交換様式Dの力は超越論的な言語の力ではないか。
著者による『力と交換様式』における極めて枢要な公式⇒カントの統整的理念としての「自然」が交換様式D に対応する
ここで次の問いが生じる。
③交換から生じる力が「観念的な力」であるなら、交換様式Dから生じる観念的な力はカント以後最も普遍的な探究をなし得たショーペンハウエル哲学において見るなら意志の力なのかそれとも表象(言語)の力なのか。
④交換様式Dから生じる観念的な力はマルクスにおける「霊的な力」であり「信用」である。ならば信用創造への言及が無いのは何故なのか?
マルクスの『資本論』において信用創造の議論があるのか。そこは根本問題の一つである。本書に限らず信用創造を考えない資本主義の探究には致命的な欠陥がある。カルヴァン主義についても同様である。言うまでもないが、この点(恐らく信用創造とカルヴァン主義の問題に無理解)に関しては嘗てのドゥルーズ=ガタリの『資本主義と精神分裂病』やマスメディア的に流行している『人新世の資本論』(「思想」的には柄谷のコピー以上のものはない)系列の言説も同様である。その理由はドゥルーズ=ガタリも『人新世の資本論』も(特にロンドンを中枢とする)グローバリズムによって描かれた絵の中のキャラに過ぎないからということだが。
『力と交換様式』をまとめるなら、柄谷行人氏は「それが何かわからなくても(だからこそ)命がけの飛躍をせよ!」と呼びかけている。それ(交換様式Dの力)はカント的な定言命法である。カントとの関連はそれでいいだろう。
柄谷行人氏は非常に長い時間と熱量を以ってマルクスを何とか哲学的にもまともなものとして救い出そうとしていた様に見える。だがそれは無理だったというのが柄谷氏自身の集大成的な仕事の最終的な結論だと思われる。
2022年10月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
かつて柄谷行人氏は『建築への意志』で、「明瞭なのは、マルクスが「芸術論」を書いたら、言葉の分析から始めただろうという省察にもかかわらず、小林秀雄自身はけっしてそれをやらないだろうということだ」と記された。
柄谷自身は『マルクスその可能性の中心』でマルクスの価値形態論に着目し、その後『トランスクリティーク』、『世界史の構造』、そして本著『力と交換様式』を通じて、世界史を生産様式ではなく交換様式で分析し尽くした。省察だけで終わるのではなく命がけの飛躍をもって実際に分析したことは、称賛してもしきれない大いなる功績である。
岩波書店から本書は「交換様式の最終形」として「呪力(A)、権力(B)、資本の力(C)による、資本=ネーション=国家を揚棄する力(D)が明らかに!」と謳われている。最終形がついに刊行され、早く読みたいという思いとこれは最終と惜しみつつ読了。以前からの疑問、交換様式Dとは何だろうか、への答えが本書で解明、記述されていると期待した。個人的には残念ながら交換様式Dを理解できなかった。
『世界史の構造』によれば、交換様式ポートフォリオ4象限の縦軸は自由/拘束、横軸は平等/不平等であり、交換様式Dは自由と平等の象限に位置する。『力と交換様式』で交換様式Dの痕跡について様々に記述されているが、D象限で何と何が交換 (Exchange) されるのか分からなかった。
それは分からないように出来ているのかもしれない。マルクスが記した諸生産様式の続きは、革命による共産主義(コミュニズム)であり、共産主義が何であるかは具体的には記されなかった。柄谷は生産様式ではなく交換様式で分析したが、D象限はマルクスに倣えば共産主義に相当する。使い古された言葉、共産主義とストレートに書くことは憚られたのかもしれない。D象限は交換 (Exchange) ではないから交換様式Dの表記はなじまないのではなかろうか。
< 交換様式 > < 近代の社会構成体 > <力>
A 互酬 ( 贈与と返礼 ) A ネーション A 呪力
B 略奪と再分配( 支配と保護 ) B 国家 B 権力
C 商品交換 ( 貨幣と商品 ) C 資本 C 資本の力
D X ( ? ) D X D 資本=ネーション=国家を揚棄する力
マルクス『資本論』の価値形態論「単純な、個別的な、または偶然的な価値形態」及び「総体的または拡大せる価値形態」が交換様式Aに、「一般的価値形態」が交換様式Bに、「貨幣形態」が交換様式Cに相当する。マルクスは、交換様式Dに相当する価値形態は記述していない。
かつて柄谷は中上健次氏と『小林秀雄を超えて』という対談を行った。本書『力と交換様式』で柄谷はマルクスを超えただろうか。俯瞰すればマルクスの補完ではなかろうか。マルクスは誤解されたにしても誤解されるように書き(奇しくも柄谷は講演で交換様式Dは誤解されていると『文学界 2022年10月号』)、マルキシズムを掲げた共産主義諸国を生み出し、その後、共産主義のメッキは剝げ落ちて独裁主義諸国を現在に残置させた。
マルキシズムの轍を踏まないように、交換様式Dは実在せず実現を目指すべきでもないと予防線を張る。
一方でネーション=国家=資本(交換様式ABC)の輪が、戦争、環境破壊、経済格差をもたらしたとする。そこに論証はない。ネーション=国家=資本が無ければ、戦争、環境破壊、経済格差は抑えられたのだろうか。ネーション=国家=資本の代わりとなるものについての考察、思考実験もない。にも関らず対抗すべきとする。ネーション=国家=資本の代わりとなるものを描けないまま、共産主義を掲げた結果の独裁主義が、戦争、環境破壊、経済格差をもたらしているのではなかろうか。ロシア等のように。
柄谷が『世界史の構造』の次に『力と交換様式』を執筆中と発表された際、題名から、これは浅田彰氏『構造と力』(1983年) のパロディではなかろうかといぶかった。40年前を想い起こせば、浅田が紹介したドゥルーズ・ガタリによる「コード化、超コード化、脱コード化」は、「交換様式A、B、C」に相当しそうである。そして「交換様式B、C、D」は、浅田によるチャート区分「プレモダン、モダン、ポストモダン」にパラフレーズできるかもしれない。ポストモダンについて描かれた逃走論(=闘争論?!)の、その後は如何か分からないが、D象限を描くのは至難の業に違いない。
D象限に位置する交換様式Dは、完全なる自由かつ平等である。自由であれ、と命じられることすらなく、あらゆることから解放されて自由になり、万人に等しく向こうからやってくるもの。それは死である。人類の死によって、ネーション=国家=資本も無くなり、戦争、環境破壊、経済格差も無くなる。有機は無機に交換される。タナトスは故あるのである。
完全なる自由と平等は、実在しなかったし、実現されることもない。なぜなら同語反復になるが、それが理念型であるからである。
自由と平等の積極的な定義が困難であるのは、他人の自由と平等を侵さない限りにおいて、自分の自由と平等がもたらされる構造にある。社会的関係において生きる人間は、国家=ネーション=資本のしがらみがついて回り、個人の意図や意識とは無関係に、その個人が結びつく国家=ネーション=資本によって、他人の自由と平等を侵さざるを得ない局面がある。例えば、ある国の個人が戦争をしたくなくても、その国が戦争をする。ある商品を購入すると、生産・製造・流通過程で不当な搾取が行われているかもしれない。
完全なる自由と平等である世界共和国は世界同時革命によってもたらされるとする柄谷のビジョンから考えると、他人の自由と平等を侵さないことによってはじめて、自分の自由と平等が、さざ波のように向こうからもたらされる。
まさしく自由と平等が、人々の横つながりでお互いに交換される。
柄谷の交換様式ポートフォリオは、自由と平等を軸として4象限を区切る。交換様式A(互酬)は、自由はないが平等はある。交換様式 B(略奪と再分配)は、自由も平等もない。交換様式 C(商品交換)は、自由はあるが平等はない。交換様式 D(X)は、自由も平等もある。
交換様式A(互酬)は、相手に貰った負い目から貰った物を超える物を返すお返しや、蕩尽にまで至るポトラッチもあり必ずしも平等ではない。交換様式 B(略奪と再分配)に自由も平等もないだろうか。王は臣下の生殺与奪を握るが、臣下には階級内で限定された自由や平等はあったであろう。交換様式 C(商品交換)には、自由はあるが平等はないだろうか。等価交換は、互いの物を等価として交換するから平等である。そのことを人間は意識しないがそう行う、とマルクスは表現した。一方が不等価と思えばその交換は成立しない。交換様式Dの事例として柄谷が選定したのは、狩猟民、遊動民、イオニア、山人、原始共産社会、原始キリスト教社会等。問題は、交換様式ABCDにおいて交換を行う各当事者の主観や時代、地域に関係なく、自由と平等の軸を投影していることにある。
柄谷は以前「形式体系の内部で形式化を徹底させることによって、自己言及の矛盾を露呈させ形式体系の瓦解を図り、外部へ出ること」に取り組んだ。同じく疑うべきは,交換様式ポートフォリオ4象限を区切る自由と平等である。
ビジネス戦略の PPM(プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント)は、市場成長率/市場占有率を、縦軸/横軸として4象限を区切り、市場に提供する自社製品やサービスを4象限に配置する。
市場成長率と市場占有率がともに高い象限は、花形(Star)と称される製品やサービスが配置される。
柄谷の交換様式ポートフォリオは、自由/平等を軸に4 象限を区切る。自由と平等のD象限で交換されるものが、自由と平等であると仮定すれば、PPMに当てはめると、花形(Star)の象限に、製品やサービスではなく市場成長率と市場占有率が配置されることに相当する。これは、4象限を区切る軸そのものが、一つの象限の中に持ち込まれることになり、自己言及を孕む。交換様式Dの分かりにくさは、柄谷が格闘した自己言及の問題に起因すると思われる。
音の探求者である坂本龍一氏は「シンセサイザーの音を聴くと、聴く前の耳に戻ることはできない」と以前語られたと記憶する。一度耳にした音は既知となり、新しい音を聴いた経験は蓄積され、経験以前の状態に戻ることはない。
おそらく音に限らず、人はあらゆる経験を蓄積している。例えば、待ち合わせの人ごみの中から知人を瞬間的に見つけ出せるのも、その知人について蓄積された情報で峻別できるからである。常に経験しながら情報を蓄積し、同時にそれまでに経験して蓄積された情報と瞬時に照合している。故に意識しなくても、見慣れた通勤経路は間違わない。初めて通る路では目を見張り気も張る一方で、時にデジャヴを感じることもある。死ぬ間際に蓄積された経験である過去が走馬灯のように流れることもあり得るだろう。
人が自由と平等について知ったり経験して不自由や不平等に目覚めた時、不自由や不平等を解消する、自由や平等を獲得する活動を始めたり賛同したり、擁護することは大いにあり得る。先々、世界に完全なる自由と平等が具現することはないだろうが、自由と平等のことを知れば人々は必ず希求する。それは、自由や平等を否定するもの(A,B,C)の否定であり、自由と平等を求め続ける衝迫(D)である。それを共産主義やアソシエーショニズムと命名するまでもない。カテゴライズさえ食い破る自由と平等。
人類の血塗られた歴史において獲得されて来た自由と平等を、未来へのかがり火とすること。それはロシアによるウクライナへの軍事侵略が止まない現時点においてヴィヴィッドであることは間違いない。
交換を扱う交換様式論の4象限ポートフォリオはスタティックで、交換のダイナミズムは感じられない。
ある時代の、ある社会で行われる交換は、交換様式A, B, Cのいずれかがドミナントである、と分析する。その分析を様々な社会に適用して、ドミナントの山を築く。So, What? 面白くない。
「隠喩としての建築」「日本近代文学の起源」「内省と遡行」の柄谷は、人が疑わなくなった既成概念や通説が歴史的に形成されたことを、遡行して分析した。
今疑うべきは、交換様式論の4象限ポートフォリオを可能ならしめる視点、4象限の中心である。その中心こそ遡行して分析されるべき。
スタティックで面白くない交換様式論に残されたのは、交換様式D。4象限ポートフォリオの縦軸と横軸は、自由と平等である。柄谷は、交換様式Dが宗教として向こうから来ると言う。しかし、自由かつ平等である象限の交換様式Dが、自由も平等もない宗教とする論理破綻。
柄谷は、度々、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」を揶揄してきたが、「現代思想2011年5月号 特集=東日本大震災」で、柄谷は、資本主義は終える、と書いた。資本主義の終わり。だが、「ニュー・アソシエーショニスト宣言」は、資本主義への対抗が失敗した敗北宣言である。
40年前、浅田彰は「構造と力」で、マルクスの価値形態論を元に、クラインの壺として資本主義のダイナミズムを描いた。
スタティックな交換様式論で一丁上がりと落ち着いている場合ではない。
交換のダイナミズムを捉えきれない交換様式論は、投げ捨てて、交換様式論の元となった、マルクスの価値形態論を主軸に据えるべきである。
マルクスの価値形態論を手掛かりに、コミュニケーションについて根本的に考え直す時が来た。
柄谷自身は『マルクスその可能性の中心』でマルクスの価値形態論に着目し、その後『トランスクリティーク』、『世界史の構造』、そして本著『力と交換様式』を通じて、世界史を生産様式ではなく交換様式で分析し尽くした。省察だけで終わるのではなく命がけの飛躍をもって実際に分析したことは、称賛してもしきれない大いなる功績である。
岩波書店から本書は「交換様式の最終形」として「呪力(A)、権力(B)、資本の力(C)による、資本=ネーション=国家を揚棄する力(D)が明らかに!」と謳われている。最終形がついに刊行され、早く読みたいという思いとこれは最終と惜しみつつ読了。以前からの疑問、交換様式Dとは何だろうか、への答えが本書で解明、記述されていると期待した。個人的には残念ながら交換様式Dを理解できなかった。
『世界史の構造』によれば、交換様式ポートフォリオ4象限の縦軸は自由/拘束、横軸は平等/不平等であり、交換様式Dは自由と平等の象限に位置する。『力と交換様式』で交換様式Dの痕跡について様々に記述されているが、D象限で何と何が交換 (Exchange) されるのか分からなかった。
それは分からないように出来ているのかもしれない。マルクスが記した諸生産様式の続きは、革命による共産主義(コミュニズム)であり、共産主義が何であるかは具体的には記されなかった。柄谷は生産様式ではなく交換様式で分析したが、D象限はマルクスに倣えば共産主義に相当する。使い古された言葉、共産主義とストレートに書くことは憚られたのかもしれない。D象限は交換 (Exchange) ではないから交換様式Dの表記はなじまないのではなかろうか。
< 交換様式 > < 近代の社会構成体 > <力>
A 互酬 ( 贈与と返礼 ) A ネーション A 呪力
B 略奪と再分配( 支配と保護 ) B 国家 B 権力
C 商品交換 ( 貨幣と商品 ) C 資本 C 資本の力
D X ( ? ) D X D 資本=ネーション=国家を揚棄する力
マルクス『資本論』の価値形態論「単純な、個別的な、または偶然的な価値形態」及び「総体的または拡大せる価値形態」が交換様式Aに、「一般的価値形態」が交換様式Bに、「貨幣形態」が交換様式Cに相当する。マルクスは、交換様式Dに相当する価値形態は記述していない。
かつて柄谷は中上健次氏と『小林秀雄を超えて』という対談を行った。本書『力と交換様式』で柄谷はマルクスを超えただろうか。俯瞰すればマルクスの補完ではなかろうか。マルクスは誤解されたにしても誤解されるように書き(奇しくも柄谷は講演で交換様式Dは誤解されていると『文学界 2022年10月号』)、マルキシズムを掲げた共産主義諸国を生み出し、その後、共産主義のメッキは剝げ落ちて独裁主義諸国を現在に残置させた。
マルキシズムの轍を踏まないように、交換様式Dは実在せず実現を目指すべきでもないと予防線を張る。
一方でネーション=国家=資本(交換様式ABC)の輪が、戦争、環境破壊、経済格差をもたらしたとする。そこに論証はない。ネーション=国家=資本が無ければ、戦争、環境破壊、経済格差は抑えられたのだろうか。ネーション=国家=資本の代わりとなるものについての考察、思考実験もない。にも関らず対抗すべきとする。ネーション=国家=資本の代わりとなるものを描けないまま、共産主義を掲げた結果の独裁主義が、戦争、環境破壊、経済格差をもたらしているのではなかろうか。ロシア等のように。
柄谷が『世界史の構造』の次に『力と交換様式』を執筆中と発表された際、題名から、これは浅田彰氏『構造と力』(1983年) のパロディではなかろうかといぶかった。40年前を想い起こせば、浅田が紹介したドゥルーズ・ガタリによる「コード化、超コード化、脱コード化」は、「交換様式A、B、C」に相当しそうである。そして「交換様式B、C、D」は、浅田によるチャート区分「プレモダン、モダン、ポストモダン」にパラフレーズできるかもしれない。ポストモダンについて描かれた逃走論(=闘争論?!)の、その後は如何か分からないが、D象限を描くのは至難の業に違いない。
D象限に位置する交換様式Dは、完全なる自由かつ平等である。自由であれ、と命じられることすらなく、あらゆることから解放されて自由になり、万人に等しく向こうからやってくるもの。それは死である。人類の死によって、ネーション=国家=資本も無くなり、戦争、環境破壊、経済格差も無くなる。有機は無機に交換される。タナトスは故あるのである。
完全なる自由と平等は、実在しなかったし、実現されることもない。なぜなら同語反復になるが、それが理念型であるからである。
自由と平等の積極的な定義が困難であるのは、他人の自由と平等を侵さない限りにおいて、自分の自由と平等がもたらされる構造にある。社会的関係において生きる人間は、国家=ネーション=資本のしがらみがついて回り、個人の意図や意識とは無関係に、その個人が結びつく国家=ネーション=資本によって、他人の自由と平等を侵さざるを得ない局面がある。例えば、ある国の個人が戦争をしたくなくても、その国が戦争をする。ある商品を購入すると、生産・製造・流通過程で不当な搾取が行われているかもしれない。
完全なる自由と平等である世界共和国は世界同時革命によってもたらされるとする柄谷のビジョンから考えると、他人の自由と平等を侵さないことによってはじめて、自分の自由と平等が、さざ波のように向こうからもたらされる。
まさしく自由と平等が、人々の横つながりでお互いに交換される。
柄谷の交換様式ポートフォリオは、自由と平等を軸として4象限を区切る。交換様式A(互酬)は、自由はないが平等はある。交換様式 B(略奪と再分配)は、自由も平等もない。交換様式 C(商品交換)は、自由はあるが平等はない。交換様式 D(X)は、自由も平等もある。
交換様式A(互酬)は、相手に貰った負い目から貰った物を超える物を返すお返しや、蕩尽にまで至るポトラッチもあり必ずしも平等ではない。交換様式 B(略奪と再分配)に自由も平等もないだろうか。王は臣下の生殺与奪を握るが、臣下には階級内で限定された自由や平等はあったであろう。交換様式 C(商品交換)には、自由はあるが平等はないだろうか。等価交換は、互いの物を等価として交換するから平等である。そのことを人間は意識しないがそう行う、とマルクスは表現した。一方が不等価と思えばその交換は成立しない。交換様式Dの事例として柄谷が選定したのは、狩猟民、遊動民、イオニア、山人、原始共産社会、原始キリスト教社会等。問題は、交換様式ABCDにおいて交換を行う各当事者の主観や時代、地域に関係なく、自由と平等の軸を投影していることにある。
柄谷は以前「形式体系の内部で形式化を徹底させることによって、自己言及の矛盾を露呈させ形式体系の瓦解を図り、外部へ出ること」に取り組んだ。同じく疑うべきは,交換様式ポートフォリオ4象限を区切る自由と平等である。
ビジネス戦略の PPM(プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント)は、市場成長率/市場占有率を、縦軸/横軸として4象限を区切り、市場に提供する自社製品やサービスを4象限に配置する。
市場成長率と市場占有率がともに高い象限は、花形(Star)と称される製品やサービスが配置される。
柄谷の交換様式ポートフォリオは、自由/平等を軸に4 象限を区切る。自由と平等のD象限で交換されるものが、自由と平等であると仮定すれば、PPMに当てはめると、花形(Star)の象限に、製品やサービスではなく市場成長率と市場占有率が配置されることに相当する。これは、4象限を区切る軸そのものが、一つの象限の中に持ち込まれることになり、自己言及を孕む。交換様式Dの分かりにくさは、柄谷が格闘した自己言及の問題に起因すると思われる。
音の探求者である坂本龍一氏は「シンセサイザーの音を聴くと、聴く前の耳に戻ることはできない」と以前語られたと記憶する。一度耳にした音は既知となり、新しい音を聴いた経験は蓄積され、経験以前の状態に戻ることはない。
おそらく音に限らず、人はあらゆる経験を蓄積している。例えば、待ち合わせの人ごみの中から知人を瞬間的に見つけ出せるのも、その知人について蓄積された情報で峻別できるからである。常に経験しながら情報を蓄積し、同時にそれまでに経験して蓄積された情報と瞬時に照合している。故に意識しなくても、見慣れた通勤経路は間違わない。初めて通る路では目を見張り気も張る一方で、時にデジャヴを感じることもある。死ぬ間際に蓄積された経験である過去が走馬灯のように流れることもあり得るだろう。
人が自由と平等について知ったり経験して不自由や不平等に目覚めた時、不自由や不平等を解消する、自由や平等を獲得する活動を始めたり賛同したり、擁護することは大いにあり得る。先々、世界に完全なる自由と平等が具現することはないだろうが、自由と平等のことを知れば人々は必ず希求する。それは、自由や平等を否定するもの(A,B,C)の否定であり、自由と平等を求め続ける衝迫(D)である。それを共産主義やアソシエーショニズムと命名するまでもない。カテゴライズさえ食い破る自由と平等。
人類の血塗られた歴史において獲得されて来た自由と平等を、未来へのかがり火とすること。それはロシアによるウクライナへの軍事侵略が止まない現時点においてヴィヴィッドであることは間違いない。
交換を扱う交換様式論の4象限ポートフォリオはスタティックで、交換のダイナミズムは感じられない。
ある時代の、ある社会で行われる交換は、交換様式A, B, Cのいずれかがドミナントである、と分析する。その分析を様々な社会に適用して、ドミナントの山を築く。So, What? 面白くない。
「隠喩としての建築」「日本近代文学の起源」「内省と遡行」の柄谷は、人が疑わなくなった既成概念や通説が歴史的に形成されたことを、遡行して分析した。
今疑うべきは、交換様式論の4象限ポートフォリオを可能ならしめる視点、4象限の中心である。その中心こそ遡行して分析されるべき。
スタティックで面白くない交換様式論に残されたのは、交換様式D。4象限ポートフォリオの縦軸と横軸は、自由と平等である。柄谷は、交換様式Dが宗教として向こうから来ると言う。しかし、自由かつ平等である象限の交換様式Dが、自由も平等もない宗教とする論理破綻。
柄谷は、度々、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」を揶揄してきたが、「現代思想2011年5月号 特集=東日本大震災」で、柄谷は、資本主義は終える、と書いた。資本主義の終わり。だが、「ニュー・アソシエーショニスト宣言」は、資本主義への対抗が失敗した敗北宣言である。
40年前、浅田彰は「構造と力」で、マルクスの価値形態論を元に、クラインの壺として資本主義のダイナミズムを描いた。
スタティックな交換様式論で一丁上がりと落ち着いている場合ではない。
交換のダイナミズムを捉えきれない交換様式論は、投げ捨てて、交換様式論の元となった、マルクスの価値形態論を主軸に据えるべきである。
マルクスの価値形態論を手掛かりに、コミュニケーションについて根本的に考え直す時が来た。