私は、〇〇を見るという。しかし、これがその「私」だと指させるわけでなく、「見る」とはこういうことだと言下に説明できるわけでもない。
身体動作のエージェントである「私」と知覚経験の主体としての「私」あるいは体験が統合されて「私」という主語が抽出されたのであろう。
更に、その線上に「心」という把握に苦しむ得体の知れない概念の意味制作がある。思考、意図、感情といった心的経験が合流したものであろう。
心的経験とは世界でもあり、自我でもある。
「意識」とは、それを自我の側に独占的に引き寄せた上に、世界の写像というありもしない二重写しをこじつけた。主・客概念とは兄弟概念である。
心も意識も、声はすれど姿は見せずの自我も、他者もそして過去・未来も理論概念であるが誰もが、日常的に自分の経験を超越した言葉の意味を思考的に理解し自在に実用している。
意識そして心の呪縛から逃れるには、私は〇〇を只、見るに止める。それ以外の分断を拒否する。
外部自然と私とが切れ目なしに地続きになっている無垢で素朴な経験に帰る。それが実生活での「私」の意味に復帰することである。この私が世界を見聞している。その経験こそ私の心に他ならないという平明な事実は厳として残る。
漱石が「物心一如」と呼ぶくらいの許容範囲で。
装幀にお孫さんの画(亀の絵)を使ってある。リラックスして読める。
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時は流れず 単行本 – 1996/8/1
大森 荘蔵
(著)
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- 本の長さ229ページ
- 言語日本語
- 出版社青土社
- 発売日1996/8/1
- ISBN-104791754840
- ISBN-13978-4791754847
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
哲学・科学の根底にある「時間」概念を根底から覆し、「他我」問題を解消、西洋思想の根幹としての「意識」の虚構性を暴くことによって、現代科学の隠れた陥穽を突く。画期的「自我論」への予兆を秘めた大森哲学の新展開。
登録情報
- 出版社 : 青土社 (1996/8/1)
- 発売日 : 1996/8/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 229ページ
- ISBN-10 : 4791754840
- ISBN-13 : 978-4791754847
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- - 2,777位哲学 (本)
- - 2,947位思想
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2009年12月3日に日本でレビュー済み
日本哲学界の重鎮、大森荘蔵による時間三部作の第三作である。
時間論と自我論がメインであるが、基本的なコンセプトは前二作とほとんど変わっていない。個人的に最も興味深かったのは、入不二基義『哲学の誤読』でも取り上げられている「『後の祭り』を祈る」であった。
ある民族で「酋長の踊り」という儀式がある。成人を迎えた男子が二日かけてライオン狩りに出かけ、二日かけて帰ってくる。そのあいだ成功を祈る踊りが続けられる。しかし最後の二日日間の踊りは、すでに成否が決まっている以上無意味ではないか。ダメットはそう言う。
一見不合理にも思えるこの種の祈りは、しかしわれわれ現代人にもなじみのある行為である。すでに終わっている試験の合格を祈ったり、事故を起こした旅客機に乗っていた友人の無事を祈ったりすることは、むしろ日常茶飯事と言っていい。すでに確定している過去に対し、われわれが願いをかけるのはいかなる理由によるのであろうか。
大森は答える。過去は確定してはいない。過去は未決定であり、われわれによって後から登録されるものなのだ。正式な登録条件は、複数の想起の一致と現在世界への整合的接続のみである。カントにとっての物自体と同様、過去自体などというものはなく、それは人類が創作した物語に過ぎない。よってわれわれが過去に祈りを捧げるのは、決していわれのないことではないのだ、と。
なるほど未知の過去に対してわれわれが祈るのは、過去がまだ決まっていないからかも知れない。だがまだ決まっていない過去、祈りの対象となりうる過去は、そもそも過去とは言えないのではないだろうか。中島義道が言うように後悔という感情が過去を形成しているとするならば、祈りや怖れが未来を形成しているとは言えないだろうか。未知なる過去とは未来にほかならず、それを過去と位置づけようとする態度自体が、大森が懐疑の目を向けているところの、リニア的な時間概念に冒されているとは言えないだろうか。
短い文章だが簡にして要を得ている透徹した表現はさすがである。表紙のイラストが幼いお孫さんの手によるものだというエピソードもほほえましい。大森最晩年の好著である。
時間論と自我論がメインであるが、基本的なコンセプトは前二作とほとんど変わっていない。個人的に最も興味深かったのは、入不二基義『哲学の誤読』でも取り上げられている「『後の祭り』を祈る」であった。
ある民族で「酋長の踊り」という儀式がある。成人を迎えた男子が二日かけてライオン狩りに出かけ、二日かけて帰ってくる。そのあいだ成功を祈る踊りが続けられる。しかし最後の二日日間の踊りは、すでに成否が決まっている以上無意味ではないか。ダメットはそう言う。
一見不合理にも思えるこの種の祈りは、しかしわれわれ現代人にもなじみのある行為である。すでに終わっている試験の合格を祈ったり、事故を起こした旅客機に乗っていた友人の無事を祈ったりすることは、むしろ日常茶飯事と言っていい。すでに確定している過去に対し、われわれが願いをかけるのはいかなる理由によるのであろうか。
大森は答える。過去は確定してはいない。過去は未決定であり、われわれによって後から登録されるものなのだ。正式な登録条件は、複数の想起の一致と現在世界への整合的接続のみである。カントにとっての物自体と同様、過去自体などというものはなく、それは人類が創作した物語に過ぎない。よってわれわれが過去に祈りを捧げるのは、決していわれのないことではないのだ、と。
なるほど未知の過去に対してわれわれが祈るのは、過去がまだ決まっていないからかも知れない。だがまだ決まっていない過去、祈りの対象となりうる過去は、そもそも過去とは言えないのではないだろうか。中島義道が言うように後悔という感情が過去を形成しているとするならば、祈りや怖れが未来を形成しているとは言えないだろうか。未知なる過去とは未来にほかならず、それを過去と位置づけようとする態度自体が、大森が懐疑の目を向けているところの、リニア的な時間概念に冒されているとは言えないだろうか。
短い文章だが簡にして要を得ている透徹した表現はさすがである。表紙のイラストが幼いお孫さんの手によるものだというエピソードもほほえましい。大森最晩年の好著である。