自分の父も大正生まれで復員してからは難儀したようでした
朝早く夜遅くまで仕事の明け暮れ趣味もなく退職後は家でボッとしていることが多かったようでした
夜の食事の時,戦争体験を聞いたが絶対教えなかったので聞かずじまいで今思えば無理のでも聞いておけばと思っております
Kindle 価格: | ¥871 (税込) |
獲得ポイント: | 9ポイント (1%) |
を購読しました。 続刊の配信が可能になってから24時間以内に予約注文します。最新刊がリリースされると、予約注文期間中に利用可能な最低価格がデフォルトで設定している支払い方法に請求されます。
「メンバーシップおよび購読」で、支払い方法や端末の更新、続刊のスキップやキャンセルができます。
エラーが発生しました。 エラーのため、お客様の定期購読を処理できませんでした。更新してもう一度やり直してください。
無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
慟哭の海峡 (角川文庫) Kindle版
2013年10月、2人の老人が死んだ。
1人は大正8年生まれの94歳、もう1人はふたつ下の92歳だった。2人は互いに会ったこともなければ、お互いを意識したこともない。まったく別々の人生を歩み、まったく知らないままに同じ時期に亡くなった。
太平洋戦争(大東亜戦争)時、“輸送船の墓場”と称され、10万を超える日本兵が犠牲になったとされる「バシー海峡」。2人に共通するのは、この台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡に「強い思いを持っていたこと」だけである。1人は、バシー海峡で弟を喪ったアンパンマンの作者・やなせたかし。もう1人は、炎熱のバシー海峡を12日間も漂流して、奇跡の生還を遂げた中嶋秀次である。
やなせは心の奥底に哀しみと寂しさを抱えながら、晩年に「アンパンマン」という、子供たちに勇気と希望を与え続けるヒーローを生み出した。一方、中嶋は死んだ戦友の鎮魂のために戦後の人生を捧げ、長い歳月の末に、バシー海峡が見渡せる丘に「潮音寺」という寺院を建立する。
膨大な数の若者が戦争の最前線に立ち、そして死んでいった。2人が生きた若き日々は、「生きること」自体を拒まれ、多くの同世代の人間が無念の思いを呑み込んで死んでいった時代だった。
異国の土となり、蒼い海原の底に沈んでいった大正生まれの男たちは、実に200万人にものぼる。隣り合わせの「生」と「死」の狭間で揺れ、最後まで自己犠牲を貫いた若者たち。「アンパンマン」に込められた想いと、彼らが「生きた時代」とはどのようなものだったのか。
“世紀のヒーロー”アンパンマンとは、いったい「誰」なのですか――? 今、明かされる、「慟哭の海峡」をめぐる真実の物語。
1人は大正8年生まれの94歳、もう1人はふたつ下の92歳だった。2人は互いに会ったこともなければ、お互いを意識したこともない。まったく別々の人生を歩み、まったく知らないままに同じ時期に亡くなった。
太平洋戦争(大東亜戦争)時、“輸送船の墓場”と称され、10万を超える日本兵が犠牲になったとされる「バシー海峡」。2人に共通するのは、この台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡に「強い思いを持っていたこと」だけである。1人は、バシー海峡で弟を喪ったアンパンマンの作者・やなせたかし。もう1人は、炎熱のバシー海峡を12日間も漂流して、奇跡の生還を遂げた中嶋秀次である。
やなせは心の奥底に哀しみと寂しさを抱えながら、晩年に「アンパンマン」という、子供たちに勇気と希望を与え続けるヒーローを生み出した。一方、中嶋は死んだ戦友の鎮魂のために戦後の人生を捧げ、長い歳月の末に、バシー海峡が見渡せる丘に「潮音寺」という寺院を建立する。
膨大な数の若者が戦争の最前線に立ち、そして死んでいった。2人が生きた若き日々は、「生きること」自体を拒まれ、多くの同世代の人間が無念の思いを呑み込んで死んでいった時代だった。
異国の土となり、蒼い海原の底に沈んでいった大正生まれの男たちは、実に200万人にものぼる。隣り合わせの「生」と「死」の狭間で揺れ、最後まで自己犠牲を貫いた若者たち。「アンパンマン」に込められた想いと、彼らが「生きた時代」とはどのようなものだったのか。
“世紀のヒーロー”アンパンマンとは、いったい「誰」なのですか――? 今、明かされる、「慟哭の海峡」をめぐる真実の物語。
- 言語日本語
- 出版社KADOKAWA
- 発売日2017/11/25
- ファイルサイズ5699 KB
- 販売: Amazon Services International LLC
- Kindle 電子書籍リーダーFire タブレットKindle 無料読書アプリ
この本を読んだ購入者はこれも読んでいます
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
商品の説明
著者について
●門田 隆将:1958年(昭和33年)、高知県生まれ。中央大学法学部卒。ノンフィクション作家として、政治、経済、司法、事件、歴史、スポーツなど幅広い分野で活躍。『この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』(角川文庫)で第19回山本七平賞受賞。主な著書に『なぜ君は絶望と闘えたのか 本村洋の3300日』(新潮文庫)、『太平洋戦争 最後の証言』(第一部~第三部・角川文庫)、『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(PHP研究所)、『記者たちは海に向かった 津波と放射能と福島民友新聞』(角川書店)など。
登録情報
- ASIN : B077LXVGNC
- 出版社 : KADOKAWA (2017/11/25)
- 発売日 : 2017/11/25
- 言語 : 日本語
- ファイルサイズ : 5699 KB
- Text-to-Speech(テキスト読み上げ機能) : 有効
- X-Ray : 有効にされていません
- Word Wise : 有効にされていません
- 付箋メモ : Kindle Scribeで
- 本の長さ : 341ページ
- Amazon 売れ筋ランキング: - 186,893位Kindleストア (Kindleストアの売れ筋ランキングを見る)
- - 4,424位ノンフィクション (Kindleストア)
- - 5,841位角川文庫
- - 46,991位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。
著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2022年6月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ので、途中で飽きて閉じてしまいました。失礼なことを言ってしまいますが、
主人公にインパクトや注目点がないとこの手の本は読みづらい。
氏の本は当たり外れのブレが大きいです。
主人公にインパクトや注目点がないとこの手の本は読みづらい。
氏の本は当たり外れのブレが大きいです。
2020年3月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
大東亜戦争で、異なる時、異なる船(揚陸母船、駆逐艦)に乗船していた日本兵が、いずれも台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡で撃沈されて、漂流して生き永らえた方、亡くなった方、この二人について書かれている。
戦争は終戦で終わることなく、当事者、関係者、周囲にいた人々に深く傷跡を遺したままである。
漂流して生き永らえた方は、バシー海峡を望む台湾という外国に、慰霊のお寺を建造する困難に長い年月、心血を注いで挑み続け、建造後もお寺の維持にまさしく命を賭けた。
もう一人の亡くなった方の兄は、命を奪われ断たれた弟への愛情が結実して、あんぱんまん(後にアンパンマン)を生む。
二人についての章立てが、終わりの方で交互に組まれているが、読んでいて頭の切り替えがなかなか難しく、話の焦点が移ろい、すんなりとはついていき難かった。一人目の話、二人目の話とシンプルな構成にしていただいた方が分かりやすかったのではなかろうか。
戦争は終戦で終わることなく、当事者、関係者、周囲にいた人々に深く傷跡を遺したままである。
漂流して生き永らえた方は、バシー海峡を望む台湾という外国に、慰霊のお寺を建造する困難に長い年月、心血を注いで挑み続け、建造後もお寺の維持にまさしく命を賭けた。
もう一人の亡くなった方の兄は、命を奪われ断たれた弟への愛情が結実して、あんぱんまん(後にアンパンマン)を生む。
二人についての章立てが、終わりの方で交互に組まれているが、読んでいて頭の切り替えがなかなか難しく、話の焦点が移ろい、すんなりとはついていき難かった。一人目の話、二人目の話とシンプルな構成にしていただいた方が分かりやすかったのではなかろうか。
2020年3月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
アンパンマンは反戦派です。しかし、反日ではない。その街が好きだから、バイキンマンと戦う(笑)
門田さんの作品は、アンパンマンです。顔をかじられても街を守る、その気概!
特亜はアメリカが作った歴史です。中韓を相手に歴史論しても意味ないです。
門田さんの作品は、アンパンマンです。顔をかじられても街を守る、その気概!
特亜はアメリカが作った歴史です。中韓を相手に歴史論しても意味ないです。
2019年10月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
二人の老人は会ったことも話したこともないがあることで繋がっていた。一人は九十二歳で死んだ中嶋秀次。独立歩兵第十三聯隊通信兵・中嶋の乗った輸送船「玉津丸」はバシー海峡で撃沈され、実に十二日間漂流の末、奇跡的に生還を遂げた。そして日本兵たちの遺体が流れついた台湾最南端の猫鼻頭岬に寺(潮音寺)を建て、戦友の慰霊に戦後の人生を捧げた。
もう一人は九十四歳で死んだやなせたかし。日本の子どもたちのヒーロー「アンパンマン」の作者である柳瀬嵩は、バシー海峡で二十三歳の若さで死んだ柳瀬千尋の兄だった。二人の戦中戦後の生き様を描く。
門田隆将のノンフィクションは中身が濃い( ̄▽ ̄;)
もう一人は九十四歳で死んだやなせたかし。日本の子どもたちのヒーロー「アンパンマン」の作者である柳瀬嵩は、バシー海峡で二十三歳の若さで死んだ柳瀬千尋の兄だった。二人の戦中戦後の生き様を描く。
門田隆将のノンフィクションは中身が濃い( ̄▽ ̄;)
2019年12月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
史実をしっかり記憶に留めました
2020年4月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
二人の戦争犠牲者の人生。それぞれの人生は感動的で、もっと広く知られてよい話である。ただし、その二人についてではなく、この本についていうならば、成功作とはいいがたい。バシー海峡で雷撃に遭ったという以外、二人に関連はなく、二人を並べる必然性はない。一人ずつ別の著作にすべきだった。むしろ並べたことによって集中がそがれ、印象が散漫になってしまった。惜しまれる。
2014年10月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
太平洋戦争で戦死した兵士たちの数は、230万人にも上る。その大半が大正生まれの若者たちだった。大正生まれの男子の7分の1が戦死したのである。
乗っていた輸送船が撃沈され、12日間の漂流の末、奇跡の生還を遂げた中嶋秀次の体験談は壮絶である。
海に投げ出されて数時間後、筏に辿り着いた時、40人以上の仲間がいた。最初の晩は波がきつく、仲間は次々と波にさらわれ、別の仲間が運ばれて来ることもあり、他の筏と一緒になり、人数は最盛期で50人を超えた。翌日、波はだいぶ収まるが、夕刻やって来た救助船は無情にも、彼らを助けることなく立ち去った。
三日目からは波が穏やかになり、寝ることもできたが、飢えと渇き、太陽の熱射による火傷で、仲間は次々と息絶えていく。幻覚を見て海に飛び込む者、中嶋の手を妻の手と思って握ったまま息絶えた者。七日目には二人になった。
二人になった時、もう一人の人が死人の肝を食べようと持ちかけてきた。中嶋は「君は朝鮮人だから食べたらいい。俺は同じ日本人同士だから、いただけない」と言って、眠りについた。目が覚めた時、中嶋は「残っているものがあったら、俺によこせよ」と言った自分の言葉に驚く。もし、彼が「はい、これを」と差し出したら、貪り食ってしまっただろう。理屈や道義などがいかにとるに足らないものか、中嶋は思い知ったという。
10日を過ぎた時、中嶋は不意に「軍人勅諭」を唱え始めたという。ただ「生きたい」という執念がとらせた行為だったに違いない。
自分よりも体格も身体能力も勝っていた兵たちが次々と生命を落とすなか、中嶋は生きながらえ、12日目にようやく救助されるが、最後の仲間はその直前にこと切れていた。また、もう一人、救助された漂流者がいたが、その彼も間もなく息絶える。
そうして運ばれた病院で粗末に扱われた中嶋は、思わず怒鳴り、それだけの気力が残っていたことに驚く。
中嶋が奇跡の生還を遂げた約4か月後、やなせたかしの弟、柳瀬千尋の乗った駆逐艦が撃沈され、140名が戦死する。生存者は18名だけだった。柳瀬千尋は最も死亡率の高い部署にいたため、即死だったと思われる。
こちらの生存者らの体験談も壮絶だった。暗号書の廃棄のために下に降りていき、そのまま帰らなかった者もいた。冬の海で水温が低いため、数時間しか体力は持たない。数時間の間に、仲間は次々と沈んでいった。バシー海峡で生命を落とした日本兵は、十万人を超えると推定される。
中嶋秀次は戦後、「死んでいった仲間たちの鎮魂のために、何かしなければ」と思い続け、昭和40年になってようやく遺族たちとの慰霊ツアーが実現する。その後、何度か慰霊ツアーを行い、恒久的な慰霊の場をつくることに執念を燃やす。そして、台湾の最南部、猫鼻頭岬の丘に、大変な苦労の末、台湾人ら多くの人の協力を得て、1981(昭和56)年、潮音寺を建設する。
著者の門田隆将は、そこから海を見た時、中嶋が「この地」を選んだ理由がわかった気がした。「ここをおいて、他にはなかっただろう」と思ったという。猫鼻頭の海岸に多くの遺体が流れ着き、それらの遺体を運び荼毘に付したという現地の老人たちからも、門田氏は話を聞く。
門田氏が中嶋から証言を聞いたのは、彼の死の数週間前だった。寝たきりの体でありながら、中嶋の証言は鬼気迫るもので、二日間に渡って、計七時間以上に及んだが、その後届いた手紙には「もっとお話ししたいことありました」と書かれていた。判読がほとんど不可能なほど震えた字で、死力を振り絞った手紙だった。
門田氏はやなせたかしにも取材を申し込み、快諾してくれたが、やなせは間もなく病死し、取材は実現しなかった。しかし、多くの関係者の取材協力とやなせが書き残した著書が助けとなった。
やなせは戦争体験で、飢えがどれだけ辛いか知っていたから、自分の顔を食べさせるというヒーローを誕生させたと思われる。千尋さんは学問もスポーツもできる、やなせにとって自慢の弟だった。千尋さんは子供の頃、真ん丸な顔だったので、アンパンマンは千尋さんをイメージしたと言う人もいれば、アンパンマンはやなせ自身と言う人もいる。どちらが正解かは、やなせ自身にもわからないのではないか。自己犠牲の精神をアンパンマンは持っている。最初、アンパンマンは海外で売れなかったが、時を経て、次第に人気が出てきたという。自己犠牲という日本独特の価値観が世界に広まっていくことを願わずにはいられない、と門田氏は述べる。
アニメ「アンパンマン」を売り出した日本テレビのプロデューサー武井の苦労話もよかった。息子の幼稚園の参観で、ひときわ汚れた絵本を見た彼は「いけるかもしれない」と直感し、翌日には出版社を訪れ、映像化権をもらい、やなせのところにも行く。が、やなせは、以前他のテレビ局から企画を持ち込まれてだめになったことがあるので、「どうせダメでしょう」と気乗りしなかった。実際、武井が企画書を作って上にあげたところ、上層部は拒否した。必死に説明を続けたが、受け入れられず二年が過ぎた。それでも諦めず、日本テレビのグループ会社に「みんなでお金を出し合わない?」と声をかけると、意外にも出資者が多く(アンパンマンの得意なキャラクターにそれぞれが魅せられていたからに違いない)、製作費が捻出でき、ようやく会社から許可が下りた。アニメ「アンパンマン」は、嬉しい誤算で、夕方の時間帯にもかかわらず、最初から高視聴率を出した。武井の執念が実ったのである。
門田氏の取材力には、いつも感心させられる。
「戦後の価値観の乱れは、中嶋の思いとは、まったく逆の方向に世の中を運んでいた。現在の日本をつくるための礎となって死んでいった自分たちの世代のことは、忘れ去られていた。いや、忘れ去られるだけならまだいい。あろうことか、『嫌悪すべき過去の存在』として、切り捨てられ、貶められ続けた」の箇所を読んだ時は、中嶋氏ら日本兵に対して、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。我々日本人は戦後、「日本軍=悪」のイメージを植え付けられ、本多勝一の「中国の旅」で更にそのイメージを強められた。私たちはそういった戦後の呪縛から解き放たれ、正当な評価をすべき時に来ていると感じさせられた。
乗っていた輸送船が撃沈され、12日間の漂流の末、奇跡の生還を遂げた中嶋秀次の体験談は壮絶である。
海に投げ出されて数時間後、筏に辿り着いた時、40人以上の仲間がいた。最初の晩は波がきつく、仲間は次々と波にさらわれ、別の仲間が運ばれて来ることもあり、他の筏と一緒になり、人数は最盛期で50人を超えた。翌日、波はだいぶ収まるが、夕刻やって来た救助船は無情にも、彼らを助けることなく立ち去った。
三日目からは波が穏やかになり、寝ることもできたが、飢えと渇き、太陽の熱射による火傷で、仲間は次々と息絶えていく。幻覚を見て海に飛び込む者、中嶋の手を妻の手と思って握ったまま息絶えた者。七日目には二人になった。
二人になった時、もう一人の人が死人の肝を食べようと持ちかけてきた。中嶋は「君は朝鮮人だから食べたらいい。俺は同じ日本人同士だから、いただけない」と言って、眠りについた。目が覚めた時、中嶋は「残っているものがあったら、俺によこせよ」と言った自分の言葉に驚く。もし、彼が「はい、これを」と差し出したら、貪り食ってしまっただろう。理屈や道義などがいかにとるに足らないものか、中嶋は思い知ったという。
10日を過ぎた時、中嶋は不意に「軍人勅諭」を唱え始めたという。ただ「生きたい」という執念がとらせた行為だったに違いない。
自分よりも体格も身体能力も勝っていた兵たちが次々と生命を落とすなか、中嶋は生きながらえ、12日目にようやく救助されるが、最後の仲間はその直前にこと切れていた。また、もう一人、救助された漂流者がいたが、その彼も間もなく息絶える。
そうして運ばれた病院で粗末に扱われた中嶋は、思わず怒鳴り、それだけの気力が残っていたことに驚く。
中嶋が奇跡の生還を遂げた約4か月後、やなせたかしの弟、柳瀬千尋の乗った駆逐艦が撃沈され、140名が戦死する。生存者は18名だけだった。柳瀬千尋は最も死亡率の高い部署にいたため、即死だったと思われる。
こちらの生存者らの体験談も壮絶だった。暗号書の廃棄のために下に降りていき、そのまま帰らなかった者もいた。冬の海で水温が低いため、数時間しか体力は持たない。数時間の間に、仲間は次々と沈んでいった。バシー海峡で生命を落とした日本兵は、十万人を超えると推定される。
中嶋秀次は戦後、「死んでいった仲間たちの鎮魂のために、何かしなければ」と思い続け、昭和40年になってようやく遺族たちとの慰霊ツアーが実現する。その後、何度か慰霊ツアーを行い、恒久的な慰霊の場をつくることに執念を燃やす。そして、台湾の最南部、猫鼻頭岬の丘に、大変な苦労の末、台湾人ら多くの人の協力を得て、1981(昭和56)年、潮音寺を建設する。
著者の門田隆将は、そこから海を見た時、中嶋が「この地」を選んだ理由がわかった気がした。「ここをおいて、他にはなかっただろう」と思ったという。猫鼻頭の海岸に多くの遺体が流れ着き、それらの遺体を運び荼毘に付したという現地の老人たちからも、門田氏は話を聞く。
門田氏が中嶋から証言を聞いたのは、彼の死の数週間前だった。寝たきりの体でありながら、中嶋の証言は鬼気迫るもので、二日間に渡って、計七時間以上に及んだが、その後届いた手紙には「もっとお話ししたいことありました」と書かれていた。判読がほとんど不可能なほど震えた字で、死力を振り絞った手紙だった。
門田氏はやなせたかしにも取材を申し込み、快諾してくれたが、やなせは間もなく病死し、取材は実現しなかった。しかし、多くの関係者の取材協力とやなせが書き残した著書が助けとなった。
やなせは戦争体験で、飢えがどれだけ辛いか知っていたから、自分の顔を食べさせるというヒーローを誕生させたと思われる。千尋さんは学問もスポーツもできる、やなせにとって自慢の弟だった。千尋さんは子供の頃、真ん丸な顔だったので、アンパンマンは千尋さんをイメージしたと言う人もいれば、アンパンマンはやなせ自身と言う人もいる。どちらが正解かは、やなせ自身にもわからないのではないか。自己犠牲の精神をアンパンマンは持っている。最初、アンパンマンは海外で売れなかったが、時を経て、次第に人気が出てきたという。自己犠牲という日本独特の価値観が世界に広まっていくことを願わずにはいられない、と門田氏は述べる。
アニメ「アンパンマン」を売り出した日本テレビのプロデューサー武井の苦労話もよかった。息子の幼稚園の参観で、ひときわ汚れた絵本を見た彼は「いけるかもしれない」と直感し、翌日には出版社を訪れ、映像化権をもらい、やなせのところにも行く。が、やなせは、以前他のテレビ局から企画を持ち込まれてだめになったことがあるので、「どうせダメでしょう」と気乗りしなかった。実際、武井が企画書を作って上にあげたところ、上層部は拒否した。必死に説明を続けたが、受け入れられず二年が過ぎた。それでも諦めず、日本テレビのグループ会社に「みんなでお金を出し合わない?」と声をかけると、意外にも出資者が多く(アンパンマンの得意なキャラクターにそれぞれが魅せられていたからに違いない)、製作費が捻出でき、ようやく会社から許可が下りた。アニメ「アンパンマン」は、嬉しい誤算で、夕方の時間帯にもかかわらず、最初から高視聴率を出した。武井の執念が実ったのである。
門田氏の取材力には、いつも感心させられる。
「戦後の価値観の乱れは、中嶋の思いとは、まったく逆の方向に世の中を運んでいた。現在の日本をつくるための礎となって死んでいった自分たちの世代のことは、忘れ去られていた。いや、忘れ去られるだけならまだいい。あろうことか、『嫌悪すべき過去の存在』として、切り捨てられ、貶められ続けた」の箇所を読んだ時は、中嶋氏ら日本兵に対して、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。我々日本人は戦後、「日本軍=悪」のイメージを植え付けられ、本多勝一の「中国の旅」で更にそのイメージを強められた。私たちはそういった戦後の呪縛から解き放たれ、正当な評価をすべき時に来ていると感じさせられた。