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漱石の<夢とトラウマ>—母に愛された家なき子 単行本(ソフトカバー) – 2018/10/5
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- 本の長さ284ページ
- 言語日本語
- 出版社新曜社
- 発売日2018/10/5
- ISBN-104788515989
- ISBN-13978-4788515987
登録情報
- 出版社 : 新曜社 (2018/10/5)
- 発売日 : 2018/10/5
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 284ページ
- ISBN-10 : 4788515989
- ISBN-13 : 978-4788515987
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,152,106位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 665位作家研究
- - 132,259位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
*アート・オブ・ライフ「まどか研究所」心理相談&夢実現 所長(◆東大医学部心療内科の講師として来日したリッキー・リビングストンから「夢とアートを用いたゲシュタルト療法」の指導者養成トレーニングを◆カナダ人講師のローリ・ターナーから〈愛と癒しの心理学〉を土台に、アダルトチルドレンにも強い「ブレスインテグレーション」 のトレーニング&国際ライセンスを受ける。◆1991年にはアメリカ西海岸にセラピー留学。関野直行より「NLP(神経言語プログラミング)」、ジェニー・デイヴィスより「シャーマニックな癒し」、ITIにて「POP(プロセス指向ワーク)」を学ぶ。
*1991年から、アート・オブ・ライフ「まどか研究所」を主宰し、夫の成志(ニューヨーク・ゲシュタルト研究所会員)と共に、セラピーの個人セッションやグループ・ワーク、執筆にいそしむ。近年は随時、オンラインでも個人セッション、グループワークを行う。
https://madokainst.com/ 03-5684-2563 (12:30~22:00)vsopvsop@d7.dion.ne.jp 週末&祝日も可、不定休。
◇上記履歴写真の撮影=鈴木淑子
ただ今、2023年5月に開講した第2回Zoom6ヶ月「アートセラピスト養成講座」へのゲスト参加者も募集中。
旧名:亀井廣美・神奈川県立厚木高校を経て、國學院大學文学部卒。心理療法家/セラピスト、認定心理士/メンタルケア・スペシャリスト。これまで4冊の著作の他、「朝日新聞」「東京新聞」「現代詩手帖」「図書新聞」などにも執筆。
1998年~2018年には、心身と表現をつなぐ観点から、舞踏・舞踊評論も手がけた。
2005年~2009年には欧州をたびたび訪れ、JapanFoundationの助成を得ながら、暗黒舞踏についてのレクチャーで英・墺・伊・ポーランド・クロアチアをツアー、墺・仏・英の国際ダンスフェスティバルを取材。
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『やさしさの夢療法』(日本教文社)は、「ノンノ」「モア」「とらば~ゆ」「ミスティ」「健康現代」「名前のない新聞」他、『「夢」を知るための116冊』創元社でも、他の115冊の古今東西の夢の名著と並んで見開きで扱われ、甲子園大学・心理学教授・安村直己より好評を得た。2022年に、28年ぶりに同出版社より電子書籍化。
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『漱石の〈夢とトラウマ〉』は、『やさしさの夢療法』に次ぐ、久しぶりの心理療法家の視点を生かした評論。
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『夢十夜』を含む主要12作品について、子供時代に「実父から受けたトラウマ」、青年期の「大塚楠緒子に対する失恋」、また作家になるまでの「正岡子規からの影響」などを〈独自のセラピー・マインド〉の視点から追っている。
◆本書は、「図書新聞」(書評:駒沢女子大学教授・松岡努)、「出版ニュース」、「國學院大学・学院会報」(書評:大谷大学教授・望月謙二)に取り上げられると共に、
2019年には「神保町漱石カフェ」主催で、英国人の漱石研究家ダミアン・フラナガンとトークの会を開催。
また2019年6月より、中沢けいの連載小説も掲載された「K新聞」にて、毎月1回の漱石エッセイ「漱石 夢 トラウマ」を3年間にわたり毎月連載した。
カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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明治の時代精神と漱石との重大・重要な関係性については殆ど触れられておらず、夏目漱石の全体像を網羅しているわけではありませんが、心理療法家の視点という極めてオリジナルな視点からの目新しい解説に大いなる価値があり、また読者の心を癒す或いは癒しのきっかけとなる深い気づきを与えてくれるように感じました。
以下に個人的に感銘を受けた文を抜粋します。
小説が好きな方、漱石が好きな方、漱石に興味がある方には強くお勧めいたします。
・そこに至って初めて漱石は、人が結ばれるにはドストエフスキーの言う「至純至精の感情」を開き、それを相手に伝えることの不可欠性に気づいたのではないか。(未完の『明暗』の最終章より)
・人は正面から向き合い、敬愛し合う中で、癒されるものなのである。(『行人』の章より)
・『彼岸過迄』の市蔵が自分の「負け組」の「トラウマ」を癒すには、「ありのままの市蔵では不足がある」と考える母の眼差しを起点とする自己卑下の絡繰りを解放し、そのような家庭環境を形成した両親に対する「怒り」の層を開き、その上で、自分の「痛み」を「悲しむ」ことが必要であるだろう。
・『それから』の何もしない代助には「逃げ」がある。またそれほどに、一度「抑圧」されてしまった「自分の自然」(内発的な欲求をキャッチするためのセンサーと、それを支えて自己実現するためのエネルギー)を取り戻すのは大変なのだろう。
・後に漱石の『それから』を読んだ大塚楠緒子(漱石のマドンナ)は、「これ程にあの方(漱石)を惑わしたのは我が処女の誇りである」(明治四十二年『最近の日記』)という一文を書く。
・「コンプレックス(劣等感)」とは、その人間が「劣等」だから抱くものではなく、その人間の真価とは無関係に、成育歴の中で、周囲から植えつけられるものである。
・大切なのは、成育歴の中で自分に向けられた挑発が、どんなに不当なものであったのかの確認と、そのような不当なことをせざるを得なかった父親の傷だらけの深層の把握である。つまり父親の誰かを辱めていないと、自分の価値と尊厳を感じられないという「トラウマ」である。「自分が人間の屑だから」ではなく、相手のこころの傷のために、自分が受けざるを得なかった仕打ちを把握し、客観化することが大切なのである。どんな理由があるにせよ、子供を愛せないのは親のエゴである。一方、愛されなかった子供は、自分で自分を愛することで、自己の尊厳を回復することが必要だ。
・つまり何ごとも依存しているうちは反抗しかできないものだ。また反抗だけしているうちは、そこから脱皮できないものである。どのような家の縛りがあるにせよ、それにかかわらず「ただ自分のしたいことをする」ところに、たいてい脱出の道が見えて来る。そのためには、自分が本当にやりたいことを心の底から感じ取ることが必要だ。(『夢十夜』の章から)
・「憐れ」とは、「悲しみ」の他に、「共感」と「愛情」を含んだ感情であろう。『草枕』の那美さんは、「怒り」も「悲しみ」をも胸の奥に閉ざしているために、「憐れ」を誘うことも、感じることも出来なくなっている。人は自分に内在する「悲しみ」を受けとめて置かない限り、共感を得ることも、他人に共感することも出来なくなるものだ。
・『草枕』冒頭の「智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」という「厭世観」は、この画工のものだ。そして、「・・・・どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る」と続く。ここには、漱石自身の「自分にとっての不都合や生きにくさを人のせいにするのではなく、生きる上での苦しみとして引き受けた時に、〈詩や画が生まれる〉」という、「人生の受けとめ方と創作のあり方への思い」が、投影されているように感じられる。
・家族の中で力を持つ「勝ち組」に対し、〈のけ者〉にされる側の「負け組」で育った者は、自分と同じ「負け組」を応援して成功させることにより、周囲から支持されず、認められることのなかった自分の正当性を証明したくなるという、欲求を持つ。(『坊ちゃん』の章より)
・人は、自らの「夢」を遠ざけて生きる時、人生に追い詰められ、自らの「夢」を生きる時、困難な中にも喜びもって、人生を歩めるものである。
・漱石にとって、「永遠の女性(マドンナ)」への愛のイメージと、その対象を喪失した悲しみが、漱石の「創作」の源泉と結ばれていたのではないか。
・漱石が『吾輩は猫である』の第一回目を書いたのは、三十七歳になった明治三十七年、英国から帰国後、二年目の暮れのことである。~略~ 漱石は、こうした経緯に関し、要するに「神経衰弱と狂気」が自分を「創作」に向かわせ、『吾輩は猫である』以降の作品が書けたのだから、それについて「感謝したい」と述べている。
・誰の中にも数えきれないほどの「トラウマ」による「抑圧」があるというのが私の見地ではあるが、とりわけ精神の病と隣接していたニーチェや、たびたび「神経衰弱」に悩まされた漱石は、特に重たい「抑圧」を深層に抱えて追い詰められがちであったために、人生の多くの時間を費やしてその深層を模索し、病から逃れるための努力をするべき必然を持った者たちではなかったか。~略~ 行き詰った状況から脱出しようとする時に、言い換えれば創造的に自己を乗り越えていかなければならないような時に、「(リスクを取った)冒険」が必要になることがある。
・他者に対して懲罰的あるいは反逆的な姿勢に留まるのでは、「抑圧」を生み出した「トラウマ」を癒すことができず、ニーチェの用語で言えば「ルサンチマンを晴らす」状態なのであり、自らの資源を開花させる方向には導かれ得ない。そこで、ニーチェの用語を用いれば、「超人」的な発想 ~ 一瞬一瞬(今、ここで)を懸命に生きることによる「生への全うへの努力」 ~ が、必要となる。
100年前の漱石同様に、強者や「勝ち組」ではなく、弱者や「負け組」でありながらも、夢の実現やトラウマからの癒しを希求するのが、私たち多くの人々であり、そこに、彼の作品が今なお、明治期の作品としては例外的に読まれ続けている理由があるだろう。
漱石の作品を半分ほどしか読んでいない自分だが、本書はこれまで自分が読んだ彼の作品への理解を新たにし、何よりも、まだ読んでいない幾多の作品を読み進めたいという強い思いを抱かせてくれた。
漱石にしてみれば、あの世で、喜んでいるのかどうかは解らない。というか、漱石自身は、あの世で、作品を読んでもらい、そこから読んだ者に何かしら受け取って貰えたら嬉しい・・・くらいのものだと思えるのだけれど。
しかし、漱石の作品とその人物像には、漱石がその頃の状態がどうであったのか?を探りたくなるような、さまざまな逸話が残っているからだろう。また、漱石がエリートコースを歩み神経衰弱と胃潰瘍を患いながらも、日本文学に於ける名作を生み、その内容から、どうしても人間の分析を試みたくなるような、人物の心のヒダを作品の中で醸し出しているからだろう。表には見えにくい人物の深い闇や深層が、想像力を掻き立てるものなのかもしれないし、多くの人間の内在する不安や心の傷が、漱石の文学の中に存在していることをこの本の作者である原田さんは発見したのだろう。全体を読むと、わたしには、勝ち組、負け組という言葉が印象に残った。いっとき流行った言葉であるけれども、幼い不遇の時代に於けるコンプレックスを「負け組な意識」と言うならば、分かりやすいかもしれない。特にその時代の男は時代の背景もあるけれど、勝つことを要求される時代であったように思う。ただ、現代に於いても、勝つか負けるかという問題は、言葉を他に置き換えたとしても個人個人中での蠢く闘いは心理的な抑圧としてあると思えるので、人の心の闇を開放させる心理カウンセラーとして、この本を執筆したことは作者にとって、非常に大きな財産となっているのだろうと思えた。わたしとしては大変面白く読ませて頂いた。
と云いつつ、私はまだ漱石のすべてを読んだわけではなく、また、読んだもの正確に読書として身に付けているとは言い。ただ、漱石の作品魅力はその登場人物にあるのは確かで、しかも近代の知性を、ある意味、近代化において、精神構造の深化をもたらしたともいえる。しかも新聞という媒体で。やはり一興なのだ。この著作に触れながら、漱石の作品を読み、その登場人物を追うということは。
第一章「『吾輩は猫である』を書くまで」では、「作家として立つまでの四十年間の人生は、まさに『抑圧』されていた『文学への夢』を発掘するための、紆余曲折の歳月だった。(中略)漱石文学の魅力の土台は、この紆余曲折の四十年間に培われたと言っていいだろう。」、第二章「『坊っちゃん』の『家族の負け組』」では、「漱石は『硝子戸の中』三十八によれば、子供の時から心理的圧迫が強く、昼寝をすると、悪夢や妄想のようなものに襲われた。(中略)/また、父の吝嗇からの影響らしい、金に関する悪夢にも襲われた。それは『自分の所有でない金銭を多額に消費してしまった。・・・・・・子供の私にはとても償うわけには行かない』というもので、少年だった漱石は、大変に苦しんで大声をあげたという。///漱石が先ほどの悪夢にうなされていた時、母は側にやって来て、『心配しないでも好いよ。御母(おっか)さんがいくらでも御金を出して上げるから』、と言ったのである。『この出来事が、全部夢なのか、また半分だけ本当なのか、今でも疑っている』というものの、母が『慰謝の言葉を与えてくれたとしか考えられない』と続く。このエピソードは、漱石が職業作家として身を立て、自信を得て行く過程で描かれた『夢十夜』の『第八夜』にも、通じるものがある。」「その後の漱石は、さらに深層の『愛と罪と死』の問題へと進んで行く。だが、それらの材料は、すでにここまでで出揃っている。つまり『愛情』に対する熱望と、父から植え付けられた『存在自体が、すでにいけない』という『罪悪感』、および実家の家族の『負け組』たちの早世のことである。/要するに、漱石の生まれ育ちの体験に由来する『トラウマ』の中に、これらすべてが、すでに刻印されていたことが理解できる。」「漱石文学の主人公たちが愛そうとした『マドンナ』たちは、常に『死の影』を伴いながら、漱石文学の深層に君臨し続けることになる。」
もういちど漱石の作品を読み直したくなる一冊だ。
なぜ美千代と別れ平岡から奪ったのかが本と映画では不自然でしたが、この本を読んで納得しました。